帝釈天へ初詣

明けましておめでとうございます
けさの予報は晴れ、日の出は6時50分過ぎ。そこで近くの江戸川の堤防でご来光を仰ぐことにしました。初めてのことだったので堤防に着いてびっくり。こんなにたくさんの方がお見えとは!

西の空を見ると月が浮かんでいました。今夜は満月、月の出は午後5時10分過ぎのはず。こんなことで夕方に間にあうのか。

などと、途方もないことを考えながら待つこと10分。いよいよ東の空がオレンジ色に染まりご来光があらわれました。一部の例外はあっても地球上の生き物たちにとってお天道様はとても大切な存在。今年もお世話になります、とそんな気持ちを込めてシャッターを切りました。

で、急いで家に帰り、恒例の雑煮とお屠蘇を頂いて、今度はこれも恒例になっている柴又・帝釈天までの12キロの道を(*^_^*)と歩いて初詣に。昨年の様子は、ここにありますが、それに劣らず今年もとてもいい天気。雪を白くまとった富士山が見えています。

2時間も歩くと対岸の松戸市の中心街が迫ってきて、柴又はまもなくです。

境内に着いて清めの水を使ってお賽銭を投げ込んで、二礼二拍して…とここまでは例年どおり。

今年は矢切の渡しを舟でわたって、松戸経由で帰ることにしました。船着き場の看板で、かつての松戸市矢切村にある「野菊の墓文学碑」が近いと知り、そこを訪ねました。

小説「野菊の墓」を読んだのは大昔のこと。とても悲しい悲恋の物語であったという記憶があるくらいで、詳細は忘れてしまいましたが。
松戸側で舟を降りて歩道を歩くと菜の花が咲いていた。

キャベツ畑やネギ畑などもあって…

30分も歩くと小高い丘に着き、そこには「昭和39年10月 門人土屋文明」と建立者の名が刻まれた記念碑が建ち、その脇に小さな銀杏の木がありました。小説には、「村はずれの坂の降り口の大きな銀杏の根で民子の来るのを待った」と書かれているそうですが、その大木は枯れて、いまあるのはその分身とのこと。都市化したとはいえ、この高台から眺める江戸川(旧利根川)の流れや周辺の畑に当時の面影が残っているのかも知れないと思いつつ…。

古くからここは交通の要所であったため戦国時代に大きな合戦がありたくさんの人が犠牲になったというのです。そこで武器の象徴である「矢」を切り(なくし)平和になってほしいという願いを込めて「矢切」という地名が生まれたという趣旨が書かれた看板がありました。地名のいわれは、必ずしもはっきりしない場合が多いので、そう簡単ではありません。
そんなことに思いを馳せながら、松戸市を抜けて千葉県側の堤防を家まで通算7時間、約28キロほどを、何とか両足の指にマメをこしらえながら、ようやく家に辿り着くことができました。昨年は休みが長かったので100キロ歩いた。今年はようやく51キロです。
ということで、今年はあまり無理をせず健康に気をつけながら野菜づくりの勉強や仕事に励みたいものです。今年もどうぞ、よろしくお願いします。
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