明けましておめでとうございます!


昨年一年間、皆様にはこのブログにご訪問いただき、ありがとうございました。昨年の更新は7回で皆さんのブログへの訪問も激減しましたが、これはこのブログが始まって以来のこと。きょうは、私の70歳の誕生日です。古希といわれても実感がありませんが、人生の大きな節目を迎えたことは確かですし、また同年代の方をテレビなどで拝見すると、そんな歳になったんだなとある種の感慨を覚えます。そんなこともあってきょうは久しぶりに「ざれ言」を書いてみます。皆さんのブログも訪問させて頂きます。よろしくお願いします。

まず初詣の報告です。今年も夫婦で江戸川堤防12キロを歩いて帝釈天へ初詣しました。江戸川堤防を歩いて、帝釈天へ初詣するのは今年で10年目。よく続いてきたもんだと感じます。昨年は酉年でした。そこで帝釈天からの帰りは、野鳥の多い水元公園へ。野鳥観察や写真撮影のあと、自宅まで3キロという地点まで歩きました。おそらく往復20キロ余りを歩いたはずです。

それが今年は片道だけ。ここ1週間ほど室内バイクをほぼ毎日、6〜8キロほど漕いで足慣らしをしたせいか、出足はとても快調でしたが、帝釈天に到着したら足の腿に軽い痛みを感じました。そこで用心して、歩くのは片道だけにしました。どうも室内バイクで使う筋肉と、実際の歩行で使う筋肉は違うということかもしれません。

今回のスタートは8時10分。この日も空はよく晴れて穏やかな天候に恵まれ、右手に遠く富士山を、そして左手に江戸川の流れや河川敷を眺めながらの歩きは、最高の気分でした。


おまけに、江戸川の岸辺で野鳥の姿が見えたので望遠レンズを覗くと、猛禽類オオタカでした。シャッターを切ったのですが、問題は距離が遠すぎたこと。拡大写真を掲載しましたが、小さくて良くわからない。写真をクリックしてオリジナルサイズで見ていただくと、中央付近の赤い丸印のなかにオオタカの姿が見えます。

初夢で縁起が良いもの。それは「一富士、二鷹、三茄ですが、茄は季節のモノ。それなしでも何かよいことがあるかもしれないな、と冗談を言いながら、再び歩き始めました。そのうち対岸の松戸市が近づいてきて。

次は金町浄水場の取水口の丸屋根が見え始めるといった具合で、3時間足らずで目的地周辺に到着しました。

帝釈天境内は思ったより人が多くない。時間が早かったせいかもしれません。お参りをすませ、いつもの店で玄関の飾りに使う干支の「戌」の置物を購入(冒頭の写真)しました。

初詣の話題から、少し離れますが、先月はオオタカ以外に、空を飛ぶノスリをとりました。

こちらはオオタカです。

そうした体験を通して最近感じることです。野鳥撮影というとつい遠くに出かけがちですが、江戸川も大きな自然の一角を占めており、そこにはいろんな野鳥が生息している。もっと足元の自然を大事にしなければならない。私の小さな畑も野菜を育てなければ、ミヤマセンダングサやススキ、花粉症につながる花粉を飛ばすセイダカアワダチソウが繁茂する荒れ地になってしまう。エッセイストの玉村豊男さんが、何かに書いておられたが、600坪のブドウ畑からブドウ栽培をはじめいまでは2万坪の規模になったという。こうした遊休地の活用、資源化がこれから大事になりそうです。

以上が今年の初詣ですが、せっかくなので、昨年の出来事やそれに関係することを書いておきたいと思います。初めに2017年7月8日に105歳で亡くなられた、日野原先生の思い出です。
じつは11年ほど前、仕事の用事で当時94歳の先生を世田谷区田園調布にあるご自宅に、一人でお訪ねしたことがあります。もちろん先生の信頼の厚い植木屋さんを通して連絡してもらったのですが。その日は、応接間に通され先生に初対面のご挨拶をし、用件を簡単にお話しすると「趣旨はわかった。協力するよ」と快諾され「あとは日程だけど、君の希望はいつですか」と聞かれたので、予定している行事の日程をお伝えしました。すると先生は、手元の大学ノートをパラパラとめくり、「その日は空いているから大丈夫だ。じゃぁ、ここにメモしておくよ」と仰せになり、「僕は、1日1頁の予定表を100歳になるまでつくってあるんだ。だから100歳まで働くんだ」とお話しになりました。私みたいなものに対して、とてもザックバランに接して頂き、こちらはすっかり恐縮して「先生へのご挨拶のため、私の法人の会長を案内したいのですが、時間をいただけますでしょうか」と伺うと、「君、そんな形式的なことはいらないよ。私に連絡があれば、この秘書あてにFAXを入れたまえ!」と名刺を頂きました。

三か月ほどして、先生に出席をお願いした行事の当日になりました。会場の東大の弥生講堂でお待ちしていると、突然私の携帯が鳴りました。電話に出るとそれは日野原先生でした。「いま言問通りを会場に向けて走っているが、渋滞で遅れそうだ。もし時間になっても僕が到着しないときは、次の方に登壇してお話していただくように。時間に遅れても私は必ず行きますからね」と言われるのです。しかしながら幸いなことに、先生が乗られた乗用車は時間に遅れることなく到着しました。車内を見ると、助手席も後部座席の半分も書類や本が山積みで、運転席と先生の座席だけが空いていました。驚いている私に対して先生は、「僕は10分あれば、ひとつ仕事をすますんだ」と言われました。

弥生講堂の来賓・講師控室に先生をご案内し、先に到着していた私の会長や講師の先生方に日野原先生をご紹介し、開会まで10分ほど談笑されましたが、私が先生の著作「生き方上手」をもっているのにお気づきになり「君、署名してやるよ」と言われたので署名を頂きました。ところが一冊しか用意してなかったので「会長の本を用意せずに申し訳ありません」と、恐縮すると先生は、「心配しなくとも大丈夫だよ。次の新刊を出版したばかりだから、それにサインして会長さんに送るよ」とすかさずお話しになりました。そして、何事もなかったかのように、日ごろの健康法や病院の話題をまじえたお話しされたのです。

94歳といえば、物忘れが進み耳が遠くなったりで、人との会話が不便になる年頃です。日野原先生の受け答えを聴いていると、「これが本当に94歳なのか」と驚いてしまいました。時間になり、先生はまったくの自然体で自分の講演を終えられ、何事もなかったかのように、「じゃぁね」と私たちに声をかけられ、車に乗り込みました。
私にはそんな思い出がありますが、それから11年1ケ月。お亡くなりになられるギリギリの時まで、「命の大切さ」を伝える活動を続けられたと伺います。私みたいなものが70歳で古希とかお話しすると先生は何といわれるか。多分「君、70歳が古来希なんて、それは大昔のことだよ。君のできる、世のためになることをひとつでもやりなさい」とお叱りになられるかもしれません。まずは心からご冥福をお祈りして、この話題を終わります。

と、ずいぶんと長くなりましたが、次はキムチづくりの話題です。今年はキムチづくりを始めて10シーズン目。その意味で、今年は節目の多い年です。珍しいことに昨年、キムチづくりを体験したいという、強い申し出を受けて、暮れの12月29日(金)にわが家に4名の希望者を迎えてキムチ教室を開きました。
問題は白菜。盆明けにはベランダで苗つくりを始め順調に成長し、ひと月後の9月中旬には移植できる大きさに育ちました。ところが台風18号が九州に接近したので、被害を大きくしないため、台風通過後(19日)に移植することにしました。ところが運悪く、移植の日からカンカン照りが三日も続いて、白菜は直射日光の直撃を受けてひん死の状態に陥りました。さらに10月に入ると、今度は降水量425.3ミリと大雨で、日射量102.3時間と日射不足になりました。日照時間1時間未満の日がじつに17日も続いたのです。このような天候異変の直撃を受けて白菜の生育は立ち遅れてしまいました。とてもキムチづくりにふさわしい大きさには育っていません。そこで、やむを得ず八百屋さんで購入しキムチ教室を開催したのです。
それでも上野で唐辛子やオキアミの塩辛を購入し、さらに購入した白菜の塩漬けを準備し当日朝から塩漬けした白菜の水洗いを終え、4名が到着したらすぐにヤンニョンづくりにとりかかれるよう準備しました。ヤンニョンづくりから、白菜の漬け込みまで1時間ほどで作業は終わりましたが、あとは忘年会。ホントはこれが狙いだったのかも知れません。つまみやおかずは、枝豆やそら豆、キュウリのキュウちゃんなど、無農薬野菜の野菜の冷凍保存品ばかり。一年前につくったキムチ古漬けや、出来立てのキムチも試食しましたが、参加者には喜んでもらいました。できたてのキムチはこちらですが、皆さんは、出来立てを持ち帰って貰いました。白菜は小さかったけど、キムチづくり10年のベテランの指導で、10年目を飾る、賑やかなキムチづくりを楽しむことができました。

あとは何でしょう。あ、そうだ。暮れに「大地の五億年 せめぎあう土と生き物たち (ヤマケイ新書)」という本を見つけたのです。この本は2015年11月に出版されていたんですね。「土と生き物たち」で検索していたら見つかったのですが、「台地の五億年 せめぎあう」という枕詞をかぶっているとはいえ、「土と生き物たち」という言葉を使用していることで嬉しくなりました。筆者は、森林総合研究所の藤井 一至さん。どんな思いでこうしたネーミングをされたのか、そしてどんな内容なのか、この正月休みに読んでみたいと思います。キンドル版なら778円と値段も手ごろ。

それから天候異変の影響を受けたパッションフルーツの話題です。今年のパッションフルーツは開花がひと月遅れで、結局10個の実がなりました。

最後の収穫は12月15日。写真のように、最後の粒も外見は小さいけどしっかりと中身が詰まっており、南国果樹の味を味わうことができました。秋以降に開花結実した実は熟すことがないので、食べられないものだと思い込んでいましたが、決してそうではなかったということです。

それからパソコンのトラブルの続編です。前回愚痴を書きましたが、その後とんでもなく嬉しい出来事がありました。機種によって、また故障の状況によって結果が違うので、これは私のlenovo230Xという機種の事例としてご紹介します。この機種は裏側のネジを1本外すだけで、ハードディスクを取り出すことができます。取り出した後、長男のアドバイスを受けたのですが、AMAZONでハードディスクを取り付けるUSB付きのケース(800円足らず)を注文し届いたケースに、ハードディスクを入れて新しいパソコンにつないだところ、なんと壊れたパソコンのデータが丸見えになるではありませんか。夏に旅行した三内丸山遺跡青森市)や、樹齢400年とされる神田の大糸ザクラの写真。それらがすべて復活したのです。こんな嬉しいことはありません。それにしても、大糸ザクラ(小渕沢)の姿は痛々しいばかりです。

わが家で栽培2年目のハヤトウリは、日本に渡来したのが1917年。ということは昨年は渡来100年目。鹿児島から全国に広がったため、ハヤトウリという名がつけられたのですが、渡来の経過はさておき、ウリ科の野菜としては「花が一風変わっている」「扁平で大きめの種子が1個しかない」「彼岸が過ぎてから開花し結実する」と、じつに変わった形態や習性を備えています。

二つに割ると、扁平なタネが一個入っている。

しかしトン汁にダイコンの代わりに入れたり、豚肉などと炒めたりしても、また浅漬けや甘酢漬けにしても独特の歯ざわりがして美味しい点では、他のウリ科野菜とはかなり違います。昨年の傍若無人な生育ぶりを参考に、昨年は暴れないように、ひと株を棚の上で栽培しました。

しかし台風18号で棚が落下。

それでも収穫は100個と昨年の3分の1程度ありました。これでも多すぎるくらいです。ハヤトウリと聞くと、「あぁ、漬物ね」と考える方が多いようですが、私の周囲では、いろいろのレシピにふさわしい野菜という評価が定着し始めています。そのうち、わが家のハヤトウリレシピ集でも書こうと思います。
最後は椿の取り木の失敗談です。椿の取り木に挑戦して二年目ですが、今年も失敗しました。失敗の原因がはっきりしてきました。高さ15cm程の幼苗をもらった「玉之浦」は活着してから3年後には花を咲かせはじめ丈も2m以上に成長しました。赤い花びらの縁に白い線が出る「覆輪」という品種ですが、安達瞳子(瞳の辺は、「日」が正しい)の「椿100選」にも搭載されている名花です。挿し木の技術を使い苗をつくるやり方に数年挑戦したがダメなので、昨年から取り木を試しています。昨年は、環状剥皮したにも関わらずカルスができてしまい発根しませんでした。今年は、同様のやり方を6枝に行いましたが、蟻の被害にあいダメになりました。(写真はあとで追加)失敗の原因は、蟻の被害もありますが、それよりも環状剥皮の幅が5ミリ程度と狭いため、昨年同様カルスが発生してどれも失敗という結果に終わりました。来年はこの2年間の失敗を踏まえて、環状剥皮の幅を1cm以上にすることで成功に結びつけたいと思います。1cm以上と書きましたが、植物の再生力はとても強くて、2〜3cmにしないとダメなのかもしれません。

と、久しぶりにしようもなく長い記録になりました。昨年は野鳥の写真撮影や山梨県でのクレソン摘み体験、初めての「ヤマビル体験」、「OLIMPUS TG5」のことなど、まだまだ記しておきたいことがありますが、またの機会にします。こうした結果になった一番の原因は冒頭書いたように、昨年7回しか更新しなかったことが原因です。簡潔かつ中味のあるものにするためには、できるだけ臨場感が覚めないうちに、感動が残るうちに記録することが一番の秘訣です。そう反省をしていることに免じてご容赦ください。今年もよろしくお願いします。